平和を守るひまわりの会②

平和を祈る「ひまわりの会」

戦争体験をされた女性達の戦争体験が本となりました

ごくわずかの人にしか手元には届きません(販売されておりません)

その本が私の手元に届きました。

皆様にぜひ知って頂きたいので、貴重な体験を5回に分けてアップしていきたいと思っております。

、再び日本人はメディアの暗示によって集団催眠状態にかけられ、第三次世界大戦になりそうな感じです。

犠牲になるのはいつも国民ですよ!!

※太平洋戦争で玉砕した日本兵の詩です。

”もし玉砕して、そのことによって

祖国の人たちが、少しでも

生を楽しむことができればと

せつに祈るのみである

遠い祖国の若き男よ

強く逞しく、朗らかであれ

懐かしい遠い祖国の

若き乙女たちよ

清く美しく、健康であれ”

 

戦争は何も生み出さず何も解決しない       Y・R

女学校時代に太平洋戦争が勃発

私は東京で生まれて、東京で育ちました。

1925年(大正14年)の生まれです。翌年が昭和元年です。

昭和6年に満州事変が始まって、翌7年に上海事変があったと思います。

その年に私は小学校に入学しました。

小学校は虎の門にありまして、その界隈は当時から官庁街でした。

確か小学校4年生の3学期の2月に2・26事件がありました。

昭和11年の事ですね。

翌年昭和12年の7月に支那事変(日中戦争)が始まりました。

7月7日の盧溝橋事件が発端になった戦争です。

その翌年、昭和13年に六本木にある府立第三女学校に進学しました。

その時は、まだ東京は「府」だったのですね。

入学した時は「東京府」で卒業した時は「東京都」に変わっていました。

その女学校の時、この本の発起人でいらっしゃるI・Kさん(イニシャルに変えさせていただきます)が2年下の後輩として入学してこられたのです。

その時からのご縁ですから、かれこれ75年ものご縁になりましたね。

そして忘れもしません、昭和16年の12月に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まりました。

学期試験の始まる日でしたね。

私達は「試験をやめましょう!」と騒いだのですが先生から「みんなが影響を受ける事はない」と言われて渋々試験をうけたのを覚えています。

私の通っていた女学校は当時5年制でしたので、私は昭和18年に女学校を卒業したのですが、その頃には戦局は悪くなっていたと思います。

大本営の発表しか情報がないので、本当のところは私達には解りませんでした。

薄々はわかりますけど。

その年に、上の学校に進学しました。

その頃は旧制ですから、女性の大学という意味で女子大というのはありましたが、文部省の認定する大学という意味での大学ではなくて、いわゆる専門学校です。

医学とか薬学とかいろいろありましたが、私が行ったところは理学専門学校でした。

あの頃は同じ女学校にいても、学年が1,2年違うだけで時代背景が異なり大違いでした。

昭和19年頃は、おそらく5年制の学校でも4年生とかで卒業させられて、早く追い出されていたと思います。

男性は大学生が学業半ばのまま学徒出陣で外地に出されていましたね。

好きな勉強ができる喜びも束の間、やがて学徒動員が始まりました。

私はもっと勉強したかったのですが、中断せざるをえませんでした。

◎学徒動員

私達は理系だったため、学徒動員は比較的遅かったのですが、ついに動員がはじまり、私は羽田の飛行場にある工場で働かねばならなくなりました。

そこで零戦を作っていましたね。

昭和18年、19年頃の事です。

初めの頃は週に1日登校日があり、この日だけは授業が受けられる貴重な楽しみの日でしたが受けられる貴重な楽しみの日でしたが、すぐに空襲がはげしくなり授業もウヤムヤになってしまいました。

羽根だの向上にいたころには、機銃掃射を受けた事も多々あります。

その時は、皆が作業台の下に潜りこみました。

幸い作業台が分厚かったので私達には当たらなかったですけどね。

工場から帰るときに空襲に遭った事もありました。

当時は国電と言っていましたけど、京浜東北線の蒲田から乗って、途中で空襲警報が鳴ったのです。

すると大井町で降ろされたのですが、すぐにどこかに入らないと危険です。

お友達と二人で探したら、強制疎開で空っぽになっている家があったのですね。

空襲警報は鳴っているし艦載機は飛んできているしで、怖くてすぐにその家に入り込みました。

お友達は畳を立てかけようかと言ったのですが、女二人の力ではとてもできなくて、押し入れの下の段ならいいかなと思って、そこに隠れていました。

そんな怖い思いをしたことも何度かありました。

羽田から蒲田まで歩いて帰るというのは、しょっちゅうでしたね。

帰る途中に運河があるのですが、3月9日、10日の空襲のあと火事から逃れる為に川に飛び込んで水死したり、爆弾でなくなった人だと思うのですが、東京湾に流れたご遺体が上げ潮で運河に流れ込んでいたことが何度もありました。

それを見ても、誰かに知らせるとか、引き上げるということもなしに、「3月10日に亡くなった人ね。気の毒ね」と、そのまま行ってしまう・・・・そんな感じでしたね。長引く戦争で、人が亡くなるという事に感覚が麻痺していたのかもしれません。

衝撃的な話なので、本当は語りづらいのですが、そのご遺体は白と薄茶色がムラになったような色でプラタナスの木の幹とそっくりなのですよ。

いわゆるスズカケノキです。

日本では街路樹によくありますよね。

今でも街路樹のプラタナスを見るとその当時の事を思い出してしまうので本当は見たくないのです。

ご遺体のお洋服は脱げていましたね。

4月の始め頃にも見た記憶がありますから、1か月くらいは東京湾で漂流していたのだと思います。

昭和20年の春ごろからは学徒動員先が変わり陸軍省の暗号解読班に配属されました。

私は対ソビエト担当班でした。

数字の何桁ずつかを並べ替えたりする作業でした。

一番大事なところは専門家がやるのですが、私達はその前段階の並べ替え作業などをやっていたのです。

そこで数か月間、暗号解読のアシスト作業をしているうちに、やがて終戦を迎えました。

戦争が終わってこれでやっと空襲に悩まされなくてすむという事で嬉しかったものですから、やりたかった勉強を続けようと思いました。

昭和20年の8月15日にsン総が終わってすぐの事でしたから、その年の10月頃だったと思います。

東大の理学部に行って、私がいいと思う先生を尋ね、事情をお話しし「もう少し勉強をしたいのです」と言ったら「じゃあ、いらっしゃい」と。

そんな自由さがありましたね。

実験助手としての給料は充分には出せないけど、講義は自由に聞いていいですよと、教授がご配慮下さったのです。

それも教授のお人柄の賜物だと思います。

戦争が終わり、世の中にも自由闊達な風潮が戻りつつあったということもあったのだと思います。

◎戦争前から戦争時の社会の空気感 

私は終戦の日に、ちょうど満20歳になりました。

それまでは10代でしたから、世の中の空気はそれなりにわかりましたけど、大人と同じようには分かりませんでした。

選挙権も何もありませんでしたからね。

思い返せば、物心ついた頃から、満州事変、上海事変、大東亜戦争と子ども時代から青春時代はずっと戦争続きでした。

学校でも先生によっては「兵隊さん、ありがとう」といった言葉唱和させたり「天皇陛下のおんために・・・・」というようなことを教えたりする人がいました。

もちろん、そうでない先生もいましたから、きっと先生によって違うのでしょう。

私が小学校6年生の夏休みに、中国に出征する兵隊さんの部隊が来て、小学校の教室とか講堂に泊まったことがありました。

日中戦争が7月に始まって、その翌月の夏休みです。

部隊長がいらしていたので、その人達にお茶を出すために、6年生の私達女子が夏休みに小学校まで出かけていってお茶くみをしました。

あの頃、7月に戦争が始まって、どうやって集めたのかわかりませんが陸軍省と海軍省に献金に行きましたよ。

たぶん生徒の親から集めたのでしょう。

6年生の男子から一人と女子から私が選ばれて、先生に連れられて献金に行った時の写真が新聞に出ましてね。

当時、まさに新聞が軍人たちを礼賛するような雰囲気だったのでしょう。

私達の写真は「軍国小学校の鏡」のような扱いで掲載されたわけです。

どこの放送教だとかは言いませんが、今と同じですね。

報道を通じて政府の方針の宣伝に使われてしまう。

由々しき事です。

戦争はみんなが呑気にしている間に、きな臭い空気になって本当はしなければならいことではないのに、戦争をしなければならないという狂った使命感を持っている人達が、勝手に使命感に燃えてどんどん行ってしまう結果起こるのだと思います。

今の日本の雰囲気も当時と似ています。

とても危険な事だと感じます。

私が戦争に反対する理由は、死ぬのが怖いからとか、食べ物で大変な思いをしたからではありません。

怖い思いをしたから嫌なのではなくて、そもそも戦争がよしとされる事がおかしいからです。

どれだけ奇麗ごとをのべてみても、殺し合いなのですよ。

個人が殺せば犯罪で、裁判だとか言うのだったら戦争はどうなりますか?

あの時の殺し合いは大義があったから許されるというのですか?

そんなこと断じてありません。

戦争を回避する手段をとらずに、国民感情を煽って戦争をよしとする雰囲気にもっていくというのは卑劣な事です。

お国の為に戦う事は勇ましい事だなんてとんでもない話です。

それこそ洗脳です。

いま私が危惧していることは、まさにこのことです。

政府が決めた事に疑問をもたず、乗せられてしまう国民が多いことです。

昨年の選挙結果を見ても、情けない事にそっちの方へ行っているではないですか。

乗せられてしまう人というのは心情的にのるというよりも体制についていれば「おこぼれ」があるからと、目先の利益に取り憑かれているのでしょう。

それを吹っ切れるような醒めた目を持たないといけないのですけどね。

そもそも世の中の価値観が全てお金中心になっている事が問題ですね。

皆が、知らない間にその価値観に引きづり込まれていて、お金持ちになる事が何よりも大事な事になっている。

そんな社会の行きつく先は、人を蹴落とし貪ることしか考えない餓鬼・畜生の世界(仏教が説く「六道」世界の2つ)と同じだと思います。

◎戦中戦後の食糧難

昭和20年の3月9日の東京大空襲で広い範囲が火事で焼失した後、母はぜんそくもちで具合が悪かったものですから3月の終わりに父と一緒に疎開しました。

私も兄も学生でしたから学徒動員のため2人とも東京に残ったのです。

その時の食糧事情は、酷いものでしたよ。

何を食べていたのか思い出せないですが、餓死せずに済んだのですから何かはたべていたのでしょうね。

でも栄養は偏っていたと思います。

たまに干物の配給がありましたね。

鰯のみりん干しが2枚くらい。

戦争中もそうでしたが、戦後も長い間、食糧事情は大変でした。

お米の配給も一人一日二合ぐらいだったかな。

配給手帳というものを持っていて、人数に合わせて配給をうけ購入してくるわけです。

お米の配給かと思って行くと、アメリカ軍の軍用の缶詰だったりしたこともあります。

私が住んでいた虎の門の辺りでもらったのはハッシュドビーフでしたね。

マッシュポテトのようなものと牛肉のコンビーフみたいなものが混ざっていて美味しいですがお米の代わりにはちょっと・・・・という感じでした。

お米が配給されないという事は、日本児の主食であるお米が底をつくほどの食糧難だったのかもしれません。

大地震の被災者の方々の事は気の毒に思っていますが震災は局地的です。

食糧でも物資でも外の人達に助けてもらう事ができます。

けれども戦争は日本中が崩壊していますからね。

物も何処にもないのです。

誰かを助けたくても自分達ですら食べられませんから助けにも行けません。

余分な物は何もないのですから。

農家さんは何かを作っているでしょうけどね。

そのの王かでも働き盛りの人が徴兵されて出征していたら大変です。

無茶苦茶ですよ、戦争というのは。

戦場も猛烈に大変ですけど国内だって大変だったのです。

◎ハイパーインフレと預金封鎖 

戦後の昭和21年に、ハイパーインフレが日本を襲いました。

その原因は定かではありませんが、どうやら上陸してきた米軍が日本円を勝手に印刷して物資を調達したせいだと言われています。

あまりにインフレが凄かったものですから、預金が全部封鎖されたこともあります。

その後、一定の金額までは引き出せるようになりました。

資料で調べてみますと、月がt九引き出し可能な額は、世帯主は300円。

世帯人は一人100円。家庭数に応じて、それだけ引き出せました。

当時の国家公務員の大卒初任給が540円だったそうです。

それを元に現在の会価値に換算すると、世帯主は12万円から15万円まで引き出せたそうです。

引き出したお金をどうするかと言いますと、切手のような証紙をくれるのですが、それを張ったお札でないと新札として認められなかったのです。

その診察を生活に必要なものを買う為に使っていたました。 

◎最後にお伝えしたい事

戦後当時の事を思い出すままに、とりとめもなくお話しさせていただきましたが、記憶があいまいで正確ではない事もあるかと思います。

そのあたりは、ご容赦くださいませ。

読者の皆様に最後におつたえしたいことは

若い世代の皆さまは特にテレビのニュースや新聞の報道を鵜呑みにせず、様々な情報源から情報を収集され、何が人ととして正しい道かという事をご自分の頭で考える習慣をもって頂きたいという事です。

そして、戦争は何も生み出さず、何も解決しないということを肝に銘じて頂きたいと思います。

戦争は暴力です。

戦争は犯罪です。

戦争は力で相手を屈服させる為、恨みを残します。

禍根を残します。

そして、いつかその報復をうけます。

恨みと復讐の連鎖は終わりません。

原始仏教の教えに以下のよううな言葉あるそうです。

まことに、この世において、怨みに報いるのに怨みをもってすれば、ついに恨みのやむことはない。

耐え忍ぶ事によって怨みはやむ。

これは永遠の心理である

                    (ウダーナヴァルガ)

 

奥の深いこの言葉の意味を、皆さまと共に考え、平和国家としての務めを果たして頂ければと願っております。

 

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